ハレルヤ 喜び、喜びおどろう 2

gooブログから来ました。聖書のことばを中心に、あふれる思いをまとめています

教会から地方の教会に遣わされて

主日礼拝の前に、ギターを手にした牧師がリードする日曜学校が行われていました。参加していたのは一人の小学生でしたが、大きな字で書かれた讃美歌詞やみことばを見ながら、子どもも大人も声を合わせて讃美し、聖書を朗読しました。

お話はⅠサムエル3章10節からで、紙芝居のようにわかりやすく語られていました。そのためでしょうか、午後になると、信徒の方々の間でメッセージを日常に適用しているような会話が、あちらこちらで聞かれ、とても印象的でした。

礼拝には、土曜日の家庭集会でお会いした方が、お二人出席されていました。「ひとりが一人を導く」ことを目標に、日々の生活の中で地道に伝道している信徒の方々の祈りを、主が確かに聞き、祝福しておられる様子がうかがえました。

私たちの牧師のメッセージは、Ⅰコリント4章1節から5節より「神からの賞賛を目指す」でした。私は、自分の人生において、「主」の働きのために、どのような状態であっても、また何歳になっても、心から仕えること自体が祝福であるのだと、深い励ましを受けました。

また、私自身もあかしをさせていただきました。場所や時を問わず、主を礼拝し、讃美する集まりには、確かに主の臨在があることを体験することができたキャラバンでした。

あかしの原稿

私はこれまで、「死」ということをとても恐れて生きてきました。

母が突然、心臓の病気で倒れたとき、生の献血が必要となり、親戚の方々にお願いして、何人もの方が大学病院まで来てくださいました。しかし私は、自分の血液型が母と違うと言って、輸血をしませんでした。本当は、自分の血液型をよく知らなかったのに、検査を受けて確かめることもしませんでした。なぜなら、私は献血をしたくなかったからです。そのことを、今でも忘れることができません。

医師から、意識のない母に声をかけるように言われました。私は、死を目前にした母に何と声をかけてよいのか分からず、ただ少し大きな声で「お母さん」と呼びました。すると脳波が動き、「聞こえていますよ」と医師に言われました。その後、ほどなくして、母は目を見開いたまま亡くなりました。当時の私は、「死」について何も知らず、ただ恐れるだけでした。

その頃、私は千葉に住み、子どもが二人おりました。夫は海外に単身赴任中で、父はすでに他界していました。私は長女として、三重の実家に約100日間滞在し、様々な手続きや法事を行いました。その後、夫は帰国しましたが大阪勤務となり、社宅、千葉の自宅、そして空き家となった実家を行き来する、落ち着かない日々を約2年間過ごしました。精神的にあぶない状態になっていました。

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そのような中で、夫の社宅の近くにあった教会の礼拝と英会話教室に行ってみることにしました。牧師から、初めに神が天と地を創造されたこと、そして人間も、私も、神によって造られたと教えられました。

また、牧師と話す中で、私は、自分がどれほど自己中心で、平気で嘘をつく者であるかが明らかになりました。また、死ぬことへの恐れ、自分の居場所も行き先も分からない不安をかかえながら、何とか頑張って辻褄を合わすような生き方をしていること、それが罪であるのだと知りました。

そして、イエス・キリストが十字架で流された血が、すべての人の罪のための身代わりであることを聞いて、信じました。私は母親のために、身体に針を刺すことも、採血することも拒否したのに、イエス・キリストは、私達の罪のために、からだを裂かれ、血を流してくださいました。たとえ献血をしても、いのちをほんの少しの間、生かすだけのものですが、イエス・キリストの血を信じる者には、永遠のいのちが与えられるのだと、聞いて信じました。

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天地を造られた神様は、全知全能であり、母のことも、私自身のことも、すべてご存知であるから、私はすべてを神様にゆだねる決心をしました。28年前のことでした。その後、イエス・キリストを信じる者として、国籍が天にあり、最後には天の御国に招き入れられる者となるようにと、信仰生活、教会生活の中で養われるうちに、私は「死」に対する向き合い方がはっきりと変えられました。

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12年前、夫は癌で自宅で召されました。ようやく到着した孫たちの賑やかな声を夫が聞いたことを確認した後、私は、「もう、これからは静かにしているから、呼んでくださるイエス様に耳を澄ましてくださいね」と声をかけました。夫はかすかに、しかしはっきりとうなずきました。一方の手を看護師にとってもらい、もう一方の手は私がしっかりと握っていました。誰も何も言わずに、ただ静かに教会の聖歌隊の歌う讃美歌だけが聞こえる平安な三十分の後、夫は無事にイエス様のもとに引き上げられました。

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以前は、死を前にしたとき、恐れと混乱の中にいましたが、今は、その最期の時を、主にあって、静かに喜び感謝しつつ、その時をお委ねすれば、神が万事を益としてくだると確信しています。天国で、「よくやった。良い忠実なしもべだ」と言っていただける天国で神に仕える人にふさわしい者となれるようにと、日々、準備、訓練を受けて前進する生活をさせていただいています。

 

今日の英会話教室での私のテーマ

先週の金曜日の夜、2カ月に一度の勉強会がありました。

8時から11時くらいまであって、仕事帰りの男性がたくさん出席されます。

休憩時間には、お茶だけでなく、サンドイッチやお菓子なども提供されます。

私は家が近いし、一人暮らしなので、夜遅くなっても問題はありません。

 

以前、三重県から通っていた時は、午後のイベントに参加してから帰ると、駅に着くのが9時くらいになることがありました。田舎では、9時は女性が一人で外を歩いているのを見るのは珍しいことです。駅前で乗ったタクシーの運転手さんに「今夜は、どんな楽しいことがあったのですか」と、何か意味ありげに声をかけられたことがありました。

 

教会でイエス・キリストの話を聞いて、兄弟姉妹と楽しい時間を過ごして来た後だったので、わたしの表情とか声から、幸福感がただよっているのを彼は感じたのかも知れません。キリストの香りがそこはかとなく漂っていたのかも知れません。

 

Last Friday night, we had a study meeting.
We have this meeting once every two months.

It starts at 8 p.m. and ends around 11 p.m.
Many men come after work.

During the break, we have tea, sandwiches, and snacks.

My house is close, and I live alone,
so it is no problem even if it gets late.

Before, when I lived in Mie,
I sometimes arrived at the station around 9 p.m.
after joining an afternoon event.

In the countryside, it is rare
to see a woman walking alone at night.

One time, a taxi driver asked me,
"What fun did you have tonight?"

I had just come from church.
I listened to a message about Jesus Christ
and had a happy time with my friends.

Maybe he felt my joy
from my face and my voice.

詩篇42編 なおも

「谷川の流れを慕う鹿のように、主よ、我が魂はあなたを慕う。
あなたこそ我が盾、あなたこそ我が力、あなたこそ我が望み。
我は主を仰ぐ。」

詩篇42編の5節、11節にある
「神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる」
この「なおも」という言葉が心に残りました。

たましいはうなだれ、思い乱れています。
敵対する者は「おまえの神はどこにいるのか」と繰り返し、私をそしります。

それでも、なおも。

今は見えなくても、神は確かにおられます。
過去には、昼も夜も主の恵みが注がれていました。
そしてこれからも、主はなおも恵みを与えてくださいます。

ですから私は、なおも、私の神をほめたたえます。

讃美の歌詞を思い出しました。

「なおも御恵みを、なおも御救いを、
なおも我がために 見失せし主を知らん。

なお深く主を、なお深く主を、
なおも我がために 見失せし主を知らん。」

主は、私のために十字架の苦しみを受けて死なれ、
そしてよみがえらされて、今も生きておられます。

その主を信じる私にも、
主とともによみがえらされる希望が与えられています。

だから私は、なおも主を求め、
なおも主を知りたいと願います。

今朝、与えられた気づき

今朝は、人を集めてキャンプをしようとしているのに、思い通りにならず、あせっている夢を見て目が覚めました。
起床後も、その夢を振り返っていました。

教会での集まりは、周到な計画と奉仕者一人ひとりの責任分担があるからこそ、守られ、整えられて進んでいきます。
それにもかかわらず、夢の中の私は、自分一人で何とかしようとしていました。
これは、自分の力で抱え込もうとする思いに対する、一つの警告であったように思います。

そこで、今日与えられているみことばを開きました。
ヨハネの福音書4章34節のことばです。

「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」

「行う」「成し遂げる」とは何だろうか。
はじめは、目に見える成果を出すことのように感じましたが、それはどこか律法的で、違うように思いました。

コーヒーを飲み、体が内側から温まるのを感じながら、続けてみことばに向かいました。

その中で示されたのは、

神を信頼し、みことばからずれないように生きること。
神の支配の中で、待つこと、献身すること。
多方面から整えられていることを受け止め、従順に従うこと。
与えられている賜物を意識し、神からの使命に応答していくこと。

そのような歩みこそが、神のみこころを行い、みわざにあずかる生き方なのだと思わされました。

また、永遠の御国に入れられる望みを思いながら、
何を求め、何を考え、どこに向かって生きるのか――
その方向を確かにして、一日一日を過ごすことの大切さを覚えました。

回心して28年、守られ導かれてきました。
なおもこの世の誘惑や惑わしはありますが、
その都度、方向を確かめながら歩んでいきたいと思います。

今日も、そして今週も、キャラバンの参加も含めて、
主の導きの中にとどまり続けたいと願います。

そして今、ゆっくり立ち上がって、朝食の準備を始めます。

天国への備えの中で

天国は、死んでから初めて分かるものではなく、
地上にあって、キリストをますます正しく深く知り、
信じて従う中で、少しずつはっきりしてくるものだと感じています。

そのような体験を重ねられていることを、心から感謝します。

やがて主が再び来られる時、
私たちは王の王なる神のもとで、王として、またしもべとして仕える日々に入れられます。

今は、その天国での生活への備えの時です。

救われたからといって、安穏な生活が約束されているわけではありません。
思いがけない迫害や苦難、訓練を通ることもあります。

けれども、それらすべてが主のご支配の中で起きていることだと受けとめ、
忍耐して歩むことができるようにと願います。

自我が砕かれ、痛みを伴うことがあったとしても、
主の守りと導きの中を通らされていることを覚え、
その道の先に、天国へと招き入れられる確かな約束があることを信じています。

穏やかな生活が与えられている今、
主から預けられているタラントを用いて、
永遠に残るもの、永遠に価値のあることのために献身していきたいと願います。

詩篇41篇から

詩篇41篇は、弱さの中にある人間の現実と、そこから神へと向かう信仰の姿を描いています。

1–3節では、弱っている者や病の床にある者に対する主のあわれみが語られます。主はそのような人を顧み、支えてくださる方です。

4–9節では、「私」の苦しみが語られます。悪口や敵意、さらには親しい友の裏切りという現実の中で、詩篇の作者は主のあわれみを求めます。

10–11節では、敵に対する正直な思いが表され、仕返しを願う祈りも語られます。しかしそれは最終的な願いではありません。

12–13節において、作者の視点は神へと引き上げられます。最終的な願いは、敵に勝つことではなく、主の御前にとこしえに立つことです。

 

人との関係は変わりやすく、完全で永遠な交わりをこの地上に求めることはできません。

しかし、主イエスへの信仰を土台として生きるとき、人に失望する中でも、神との変わらない交わりの中で、たましいはいやされ、あわれみを受け、主をほめたたえて生きることができます。

 

 

Human relationships are fragile and ever-changing,

and we cannot expect perfect and eternal fellowship on earth.

However, when our lives are grounded in faith in Jesus Christ, even in disappointment with others,

we can live in unchanging fellowship with God—receiving healing, mercy, and continually praising Him.