パッションのアウトラインの見直しをしていた時、テテレスタイ、テレオーが新約聖書のどこに使われているかを調べました。
ルカ12:50 しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられる」までは、どんなに苦しむことでしょう。
このバプテスマは、ヨルダン川でイエス様が受けられたバプテスマとは違い、これから受けるバプテスマのようです。
マル10:39 彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。
織田昭先生の辞書で、バプテスマには「比喩的に、どっぷりと浸されるのと同じ受動的体験;特に苦難」という意味があることを確認し、聖餐式についても黙想しました。
このみことばは、めぐみさんから何度も苦しい、寂しいというラインが入るので、弱さ、病気について考えました。また前後関係からも読み、コリントの教会が引き続き、問題があったことを知りました。
2Co12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに「完全に現れる」からである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
Ⅱテモテ4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを「走り終え」、信仰を守り通しました
これらのことばから、私は、もう高齢になって来たし、これからは苦しいことは避けて、できるだけ楽をして生きて行きたいなあと、自己中心でいたことを悔い改めました。
恵みによって始められた信仰生活には使命がある。戦いがある。そこを聖霊に導きに従って、忍耐し希望を持って、実を結んで歩み続けることを自覚していないといけないことを自覚しました。
私の召天式では、Ⅱテモテ4:7の人のようであったと言われて、ハレルヤの讃美で送られたいと思います。
そのような生き方を今後、続けて行くなら、最後にはきっと、カオカオマイ、大いに喜び、勝ち誇った思いで天に凱旋できることでしょう。